”わたくしの畑”
”わたしの畑”
”ぼくの畑”
”おれの畑”
”うちの畑”
”うちの”ってなんだろう、単に話す相手に対しくだけた言葉というだけでなく、なんだか形容する”うちの”に続くモノに対しとても愛を感じませんか?
”わたしの嫁”
”ぼくの嫁”
”おれの嫁”
”うちの嫁”
ほら、どう?”わたしの”や”ぼくの”はちょっとよそよそしい感じ。”おれの”はちょっと自己主張が激しい感じ。”うちの”は自分の大事にしている大切なモノって感じ(なぜ嫁にしたってことには、触れないでください。特に大きな意味は…)。って私の自分勝手な取り方かもですが。
さてさて、先日、サトイモの種イモを畑に植えていたときのことです。
隣の畑では枝豆の苗を植えていました。家でずっと畑仕事をしていたグループホームの入居者の方が、隣の畑を覗きにいったところ、隣の畑の方が親切にあまった苗をくださりました。苗をもらった利用者の方は、とってもうれしそうに苗を両手に大事にのせ帰ってきました。
「これ、うちの畑にうえようと思って。」
ちょっと歩いたので、少し息があがっていますが、すっごくうれしそう。でもグループホームに入居している方なので、中々自宅の畑に植えることもできないし、面倒を見に行くのも大変です。
「じゃあ、そな~れの近くだし、今、作業しているところだし、ついでにそな~れの裏の畑に植えようよ」と提案してみました。
それでもかたくなに「今日うちに帰って、うちの畑に植えるよ。そのためにわけてもらったんだもの」とおっしゃります。
なんだかんだなだめながら、何とか裏の畑に苗を植えてもらったのですが、その時、とってもさみしそうにぽつりといったのです。
「いいよ。これはあんたんとこの畑で植えて、みんなでわければ」
あぁ、この方にとって、この畑は、”だれかの畑”なんだなぁと。
”うちの畑”で”うち”が毎日毎日見に行って丹精こめて作る。それこそがその方の今までの生活であり、それだからこそ生まれる愛着や収穫のより深い喜びなのだなぁと。
なんだか、”うちの畑”へのラブラブ度を見せつけられてしまいました。
そな~れの畑は”うちの畑”では決してないけれど、”だれかのしらない畑”じゃなくて”ちょっとはうちも面倒見てやってる畑”くらいに進歩できたらなぁと。
いつか。
”うちの畑”かぁ
ちょっと嫉妬しています。